このページでは、Javascriptを使用しています

第二部 被葬者の迷宮

複雑に絡む「血の抗争」 天武の皇子たち〔2〕

 病床に伏せる天智天皇は死の2カ月ほど前、弟の大海人皇子(天武天皇)を呼び、「私の病は重い。後事をおまえに託したい」と告げた。大海人皇子はそれを固辞、すべての武器を役所に納めて吉野に下った。「多病でとても国家を保つことはできない。仏道に入って修行したい」というのがその理由。念の入ったことに、皇后である倭姫王の即位と大友皇子の立太子も進言した。見送りの人々は「虎に翼をつけて野に放つようなもの」と言ったという。『日本書紀』は、「壬申の乱」の流れを克明に記している。

【壬申の乱の勝利】

 大海人皇子の母親は、兄の天智と同じ斉明天皇(在位655~661年)。本来、大海人皇子は次期天皇の最有力候補で、事実上の皇太子として政治に参加してきた。直木孝次郎・大阪市立大学名誉教授(日本古代史)は「当時は母親の血筋が重んじられた。大友皇子の母親は地方豪族の娘。大海人皇子とは大変な身分差があった」と指摘する。飛鳥時代の常識として、大海人皇子こそ正統な皇位継承者だった。大友皇子は20歳を過ぎたばかり。年もキャリアもまったく違っていた。

 ところが、天智10(671)年、大友皇子が太政大臣に任じられたことで立場が逆転してしまう。皇位に近いライバルを次々と葬り去った兄を知る大海人皇子は、うかつな態度が身の破滅につながることを熟知していた。慣例を破ってわが子のためにした処置は、かえってその死期を早めることになってしまった。

 そして翌年、「天智陵の造営で集めた人夫に武器を持たせている」との報告が吉野に届く。これを聞いた大海人皇子は「どうして黙っておられよう」と挙兵を決意。脱出行ともいえる進軍が始まる。

 この時、吉野から父に従ったのは、草壁皇子と忍壁皇子。大海人皇子の妻で後の持統天皇も行動を共にした。一行は現在の大宇陀町から三重県名張市へ進み、鈴鹿の峠を越えて桑名市に到着。琵琶湖方面への侵入路となる岐阜県不破郡関ケ原町に、本陣となる野上行宮(かりみや)を構えた。

 この間、大津宮を脱出した高市皇子と大津皇子が合流。『日本書紀』の壬申紀には、草壁、忍壁を合わせた四皇子の名が見える。戦いの火ぶたが切られる直前、大海人皇子は右腕の高市皇子に弱音をもらした。

 「近江の朝廷には大臣や智略に優れた群臣がいるのに、自分には戦略を諮る人物がいない。どうしたらよいだろう…」。高市皇子は「近江に群臣があっても、わが天皇(大海人)の霊威に逆らうことはできません」と力強く父親を励ました。終戦後、その群臣たちに刑罰を言い渡したのも高市皇子だった。直木氏は「他の皇子は若いというより幼かった。壬申の乱で実戦に出たのは高市皇子だけと言ってよい」と話す。

 進軍路の美濃国や伊勢国をはじめ、東国からの兵力動員に成功した大海人軍は、勝利を重ねて琵琶湖東岸を南下、吉野脱出から1カ月後の7月22日、「瀬田川の戦い」で大友軍を大破して内乱を決着させた。大和国を主戦場とする戦いも、大海人軍の勝利に終わった。翌673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇となった。

 大海人軍の勝利は大友皇子を支えた大豪族の力を奪い、天皇を中心とする中央集権国家への足がかりとなった。

【吉野の会盟】

 「壬申の乱」から7年後の天武8(679)年、天武天皇は皇子たちを連れて思い出深い吉野宮を訪れる。この時従ったのは、草壁、大津、高市、忍壁の四皇子と天智天皇が残した川島、施基(しき)の2皇子。天皇は「千年後まで皇位継承の争いが起こらないように」と盟約を提案。草壁皇子は「われら兄弟の母は違いますが、お言葉に従って助け合い、決して争いは致しません」と述べ、他の皇子も同じように誓ったという。

 誓いを受けた天皇は「みな同じ母から生まれたようにいとしい」と皇子たちを抱きしめた。それから二年後、天武と持統の長男、草壁皇子が皇太子となる。天武は度量に優れた大津皇子の立太子を望んだが、皇后持統の意志が勝ったといわれる。大津皇子は持統の姉である大田皇女との間にできた子どもだった。

 複雑に絡み合った血の争いは、天武の死後、大津皇子の悲劇として表面化する。亡き父の寵愛(ちょうあい)を受けた大津皇子は、朝廷に対する謀反の疑いで捕らえられ、翌日には死を命じられた。


 万葉集に収められた辞世の歌

ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

 あまりにも早すぎる死の裁定と共犯者の赦免から、皇后持統の陰謀と考える研究者もいる。ところが、即位を目前に控えた最愛の息子草壁皇子は、大津皇子の刑死からわずか3年後、突然の病でこの世を去った。皇后・持統は悲嘆のうちに天皇として即位することになる。


大津皇子

 天武天皇の第三子として、大田皇女との間に生まれた。天智2(663)年のことで、謀反の罪で刑死したのは24歳の時だった。墓は二上山雄岳の山頂にある。漢詩集『懐風藻』は「幼年にして学を好み、博覧にして能く文をつくる。壮(さかり)に及びて武を愛し、多力にして能く剣を撃つ」と伝えており、文武ともに有能な人物だったようだ。それだけに死を悲しむ人も多かった。妻の山辺皇女(やまべのひめみこ)は髪を乱してはだしで駆けつけ、殉死したという。死に際した歌が万葉集に収録されているのは、孝徳天皇の愛息・有間皇子と大津皇子、柿本人麻呂の3人だけで、両皇子とも刑死した。


<<前へ | 次へ>>

会社概要採用情報新聞購読出版情報個人情報保護特定商取引法に基づく表示サイトマップ