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第二部 被葬者の迷宮

「壬申の乱」ともに戦った 天武の皇子たち〔1〕

 平成10年3月、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)は、明日香村の飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が出土したことを明らかにした。時代は七世紀後半。天皇の呼び名が確認できる最古の木簡であるばかりでなく、律令制度が整った天武・持統天皇の時代に、神格化された君主が存在したことを示していた。「壬申の乱」(672年)に勝利した天武天皇(在位672―686年)が、中国の皇帝に匹敵する強大な力を手にしたことを物語る資料だった。持統天皇(在位690~697年)に引き継がれた藤原京の造営が終わり、日本が「国」の形を整え始めたころ、飛鳥の地に高松塚古墳が築かれた。そこに眠るのは誰なのか。色鮮やかな壁画を背景に、今も尽きることのない議論が展開されている。


古代の大工業団地と分かった飛鳥池遺跡の調査
古代の大工業団地と分かった飛鳥池遺跡の調査。飛鳥京の生活を物質面から支えた


【古代の大工業団地】
 飛鳥池遺跡は、蘇我氏が造営した飛鳥寺の東南、約150メートルの場所に広がる。奈良国立文化財研究所が県立万葉文化館の建設に伴い、本格的な発掘調査に着手したのは平成9年1月。池の埋め立てに伴う同3年の調査でも多数の金属製品が見つかり、大工房跡であることは予想されていた。

 調査が進むにつれ、予想を裏付ける遺構・遺物が次々と姿を現し始める。金・銀・銅製品の工房跡や管理施設とみられる井戸跡、コハク、メノウ、ガラスなどの多彩な玉類…。木簡は削りくずを含めて5000点を超えた。このような結果をふまえ、奈文研は「飛鳥時代で最大、最高の総合工房だった」との見解を明らかにした。今から1300年ほど前、飛鳥寺と酒船石遺跡にはさまれた谷地には、巨大なコンビナートが広がっていた。

 しかし、何よりも飛鳥池遺跡を有名にしたのは、富本銭の発見だった。工房のの廃棄物処理場ともいえる炭層から、破片を含めて560点以上が出土。7世紀後半に鋳造された「最古の貨幣」だったことが明らかになった。和同開珎が初めて鋳造された和銅元(708)年をさかのぼる。

 「日本書紀」は、天武12年4月、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」と詔(みことのり)が出されたことを伝える。出土した富本銭は大きさ、重量とも唐の開元通宝とほとんど同じ。天武天皇は唐の貨幣制度を採りいれ、国力の充実を図ろうとしていた。工房で製造された玉類や金・銀製品も、飛鳥浄御原宮や飛鳥の寺院に供給されたとみられている。

 調査を担当した奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部の松村恵司・考古第二調査室長は「宮殿の造営をはじめ、都の生活を物質面から支えた官営工房だった。高松塚古墳の副葬品にも、ここで作られたものが含まれているはず」という。工房群は藤原京の時代まで機能していた。


飛鳥池遺跡で出土した「天皇」と記された木簡

飛鳥池遺跡で出土した
「天皇」と記された木簡。
天武天皇を指す可能性が
強い

【天皇木簡】

 大君は神にしませば赤駒の匍匐(はらば)ふ田井を都となしつ

 大君は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼を都となしつ


 「万葉集」に収められた2つの歌は、天武天皇を神とあがめ、強烈なバイタリティーで進められた都づくりを賛美している。いずれも「壬申の乱」の決着後に詠まれた。

 「天皇」の呼び名は、道教の神「天皇大帝(てんこうたいてい)」に由来するとされる。熊谷公男・東北学院大学教授(日本古代史)は「中国の称号を借りてそこに独自の意味を持たせた。『天』は天照大神の子孫であることを意味している」と話す。


 日本における「天皇」号の使用起源は諸説あり、大阪府羽曳野市にある野中寺の弥勒菩薩半跏像の台座銘文から、天智朝をあてる研究者もいる。熊谷氏は「『天皇』はスメラミコトと読ませた可能性が強い。成立が天智朝にさかのぼるとしても、ことさら神格化し、『皇后』『皇太子』とセットで天皇号を使用したのは天武天皇が最初」と話す。

 飛鳥池遺跡の「天皇」木簡から、その可能性がクローズアップされた。縦11.8センチ、横1.9センチの木簡には、「天皇聚露弘□□」(□は確認できない文字)と記されていた。「天皇が露を集めて広く…」と読めるが、意味はよく分からない。同じ南北溝から見つかった木簡は「丁丑年12月三野国刀支評次米」と読めた。「丁丑年」は天武6(677)年。新嘗(にいなめ)祭に用いる次米(すきのこめ)が、刀支評(現在の岐阜県南部)から上納された際の荷札木簡だった。この年の新嘗祭は「日本書紀」にも記録されており、神的権威を高めるための重要な儀式だった。

 「現人神(あらひとがみ)」として登場した天武天皇は、令制の最高官である太政大臣や左右大臣を置くことなく、14年間にわたって君臨する。兄の天智天皇が息子の大友皇子を太政大臣とし、蘇我赤兄ら有力豪族を左右大臣に任じて補佐させたやり方とは対照的だ。それはやがて大海人皇子(天武天皇)の疑念を生み、「壬申の乱」へと発展していく。

 そのかわり、血のつながった皇子たちが国政を補佐した。晩年近くになって定めた「八色(やくさ)の姓」では、皇族系の氏族に与えられる「真人」を最高位に置き、「皇親政治」と呼ばれる独裁体制を作り上げた。

 天武天皇が絶大な権力を築き得た背景には、皇位継承者である大友皇子を打倒した「壬申の乱」があった。父親の行く末をかけてともに戦った皇子たちは、高松塚古墳の被葬者論にも大きな影響を与えている。


飛鳥池遺跡の公害対策

 古代の大工業団地である飛鳥池遺跡は、飛鳥の宮殿地域から数百しか離れていない。製品の供給には便利だが、汚水や煙の処理も課題だったと想像できる。工房群は階段上の沈殿池をはさんで東西に分かれ、何度もろ過を繰り返して排水する仕組みだった。宮殿地域との間には酒船石から延びる細長い丘陵があり、鋳造の様子が目に触れることもなかった。

■富本銭の発見
 富本銭は藤原宮跡や平城宮跡でも見つかっていたが、まじないに用いる「厭勝銭(ようしょうせん)」と考えられてきた。奈文研が日本書紀」の記述に照らして国内最古の「通貨」と言えたのは、出土層位の詳細な検討から、7世紀後半という時期を得たことが大きい。「藤原京の造営に合わせ、流通経済を支えるために鋳造された」との見解が導き出された。工房跡には約200基の炉跡が集中。大量生産が裏付けられた。成分分析で明らかになった高い鋳造技術からも、国家的な貨幣であった可能性が強まった。


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