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第一部 それぞれの高松塚

育てた文化財の国際性 伊達宗泰氏

 日本の考古学が世界の考古学になった-。県立橿原考古学研究所から現場に派遣された伊達宗泰氏=現花園大学名誉教授=は、高松塚古墳の調査をこう総括する。「世界史の中で日本を見ようとする視点が生まれた。学問的な国際交流が進んだ意義は大きい」。発掘後に相次いで開かれたシンポジウムには、韓国や中国からも研究者が出席。地域別の編年が中心だった日本の考古学に、それまでにない状況が生まれた。


大勢の報道陣や見学者に囲まれた高松塚古墳
大勢の報道陣や見学者に囲まれた高松塚古墳。
日本の考古学は世界の考古学となった(花井節二さん提供)


 終戦直後から同研究所の調査に携わった伊達氏は、網干善教氏とともに高松塚古墳の現場を指揮する立場にあった。石槨(せっかく)に流れこんだ土砂の除去や遺物の搬出は2人の手で行われ、学生たちが外で作業を手伝った。「漆喰(しっくい)が水を含み、素晴らしい色を出していた。壁画館の模写とは比べ物にならないほどきれいだった」。

 最初に上半身を乗り入れた広瀬永津子さんを除き、学生たちが中に入ったのは発見の2日後。出土直後の壁画を間近に観察した研究者は二人のほかにいない。加熱する報道で情報の混乱を懸念した同研究所の末永雅雄所長から「担当者が正確な報告を書いたほうがよい」と指示を受け、当時の『朝日ジャーナル』に「飛鳥・壁画古墳の発見」と題する文章を掲載した。これが高松塚古墳に関する初の文献資料となった。

 この中で伊達氏は、多数のガラス製品と金製品が出土した新沢千塚126号墳(橿原市)の調査に携わったことを挙げ、「今回はより以上その感動は強烈、衝撃的であった」と感慨を記している。

 同古墳の遺物は、中東アジアからシルクロード経由で伝わったとされる。高松塚古墳の壁画を描いたのは、中国や朝鮮半島から渡来した絵師。いずれも日本の考古学の視点を広げる調査だった。

 「高松塚古墳をきっかけに美術史や自然科学など、他学問との提携が飛躍的に進んだ。現在のいろんな状況が、高松塚古墳から生まれた」と話す。国際的な視野もそういった流れの一つ。キトラ古墳で壁画が確認された時には、国外の多彩な類例から被葬者論が展開された。

 ただ、無責任な学説の展開には批判的。末永所長は実証主義で知られた。「昔の考古学は実証的すぎて夢がなかった。飛躍した発想もない。しかし、最近はそういう考え方をなつかしく思う。足元をきっちり固めて物を見るようにしたい」という。仮説が定説化するまでの経緯を大切にしたいという考え方だ。

 文化財に対する行政の姿勢も大きく変わった。国民の目が遺跡保存に向けられたことで、文化財問題は初めて市民権を得た。発掘調査の専門職員が採用され、報告書の数も飛躍的に増えた。伊達氏は「考古学に携わる者にとって、何とかしなければならないという気持ちは常にあった。速度は遅くとも、いずれ現在の状況になったかもしれない。ただ、遺跡の破壊はかなり進んでいただろう」と振り返る。

 最近危機感を抱いているのは、平城宮跡地下の京奈和自動車道建設計画。地下水の変化が木簡に影響を及ぼすとして、日本考古学協会も国や県に計画撤回を求めている。

 「地下に変動が起きることは確か。平城京の木簡は水田地域だから残ってきた。今も貯水池がその役目を果たしている。これまでの努力を無にする行為」と指摘する。奈良時代の墳墓地域だった平城山も住宅開発で一変し、「もうどうしようもない」と残念がる。「高松塚で文化財を取り巻く状況が本当に良くなったかというと、まだ問題が残っている」。  初期大和政権の解明に重要な鍵を握る大和古墳群では、県道バイパスの建設が進行中だ。高松塚古墳が21世紀の奈良県に投げかける課題は、遺跡との面的な共存といえるかもしれない。

 高松塚古墳の調査に携わった人たちには、そこから始まる何かがある。学生たちにとっては自らの研究姿勢であり、教育者としての情熱、発掘調査にのぞむエネルギーとなった。村民は古代史に彩られた郷土への思いを一層強くした。そして、伊達氏が指摘するように、現在の文化財行政や学際的な考古学研究の始まりでもある。報道機関にとっても、大きな転換点であったことは間違いない。

 県内では、日々各地で発掘調査が進められ、新たな成果が得られている。一方で、遺跡破壊と発掘調査が表裏一体の関係にあるのも事実。飛鳥時代の大工房跡、飛鳥池遺跡(明日香村)で問題となったように、貴重な遺跡が「記録」によって「保存」される例は少なくない。

 高松塚古墳の調査が参加した人々の中で輝きを放っているのは、完全に近い状態で保存されていることと無関係ではないだろう。報告書だけの遺跡は、担当者の記憶の中で生き続け、やがて残像となってしまう。報告書を通じて学術的な世界に貢献しても、具体的なイメージは写真や図面でしか得られない。

 高松塚古墳が発掘された当時のように、重要な遺跡が何の調査もないまま姿を消すことはなくなった。発掘が遺跡の破壊を伴うことは事実だが、目的は調査であって、抹殺ではない。再び埋め戻して保存できれば、調査担当者の思いはまったく違ったものになるだろう。

 単なる「記録保存」から実体のある遺跡保存へ。文化財行政の転換点となった高松塚古墳の発掘30周年を機に、あらためて考える時期がきている。


 伊達宗泰

 昭和2年生まれ。立命館大学文学部を卒業後、奈良教育大付属中学や県立畝傍高校で教鞭をとる一方、県立橿原考古学研究所の前身にあたる県史跡名勝天然記念物調査会や県の委嘱を受けて遺跡調査を担当した。主な遺跡は、二十三面の鏡が出土した大和天神山古墳(天理市)やメスリ山古墳(桜井市)、高松塚古墳など。同研究所付属博物館の前身、大和考古館の主任を務めた後、花園大学教授に就任。現在名誉教授。


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