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第一部 それぞれの高松塚


「現場」が教えた進む道 学生たち〔6〕

 「あすか」から明日香へ-。NHKの連続テレビドラマが明日香村を舞台に放映された平成11年、同村は全国の「あすかさん」に呼びかけて、命名のエピソードを募集した。寄せられたエピソードは205通。全国の39都道府県に及び、海外からの応募もあった。


大勢の見学者が詰めかけた高松塚古墳
壁画の発見が報道され、大勢の見学者が詰めかけた高松塚古墳(花井節二さん提供)


 その中に、高松塚古墳の壁画発見を命名のきっかけに挙げた人が15人いた。兵庫県伊丹市の中畔(旧姓・上村)明日香さんが生まれたのは、発見の一報が新聞に掲載された昭和47年3月27日。エピソードには「高松塚古墳の新聞記事がなかったら、今の私はない」と記されていた。初めて明日香村を訪れたのは高校1年の時。「別の自分が急に目覚めたようなショックを感じた」という。日本の原風景に対する帰属意識は、今も心に受け継がれている。

 「壁画に描かれた女官のように、ふくよかな女性になってほしい-」そんな思いを名前に託した母親もいた。発掘現場を指揮した網干善教氏は「高松塚古墳の発掘が意外なところに影響を与えたことを知って驚いた」という。

 誕生の瞬間に高松塚古墳と深い結びつきを持った「あすかさん」とは別に、発掘当時、「高松塚世代」と呼ばれた学生たちがいた。壁画の年に関西大学考古学研究室の一員となった一年生たちがその世代。同古墳の「発掘同窓会名簿」には、この年に入学した十数人の名前が掲載されている。

 県立橿原考古学研究所の西藤清秀・調査第2課長もその一人。「初めて現場宿舎に出向いた時、『高松塚の落し子がきた』と先輩たちに言われた。開口一番という感じで、あまりいい気はしなかった。今から思えば、『よくきたな』というあいさつがわりだったかも」と笑う。

 その年の入学式は4月8日。高松塚古墳の成果はテレビや新聞で知っていた。「関大で考古学をやろうと思っていたので、イメージは強烈だった」という。しかし、どうしたら現場に行けるか分からない。同級生と話すうち、考古学研究室の存在を知り、「測量要員が不足している」と言われて現場宿舎を訪ねることになった。

 それから一週間、高松塚古墳と文武天皇陵間の測量を担当した。「周辺には露店も出ており、観光客の多さにびっくりした。レクリエーション気分だったのに、現場では変な優越感を感じた」と笑顔を見せる。

 野外での作業は性に合っていた。中学・高校時代を運動部で過ごし、テニスの実力は相当なもの。中学時代は滋賀県大会で優勝、高校時代も県大会でベスト16に勝ち進んだ。考古学を志して関西大学に入学したものの、6年間続けてきたテニスか考古学か、打ち込む対象を決めかねていた。

 「高松塚古墳の一週間で『考古学をやろう』と思った。現場の楽しさが分かった気がした。進む道はすぐに決まった」。それからは現場、現場の日々が続いた。6月は大阪府吹田市の吉志部古墳、夏休みには、橿考研が行った富雄丸山古墳(奈良市)の調査に参加した。先輩たちと同じように、現場と大学を往復する毎日だった。

 古墳の調査に広範囲の測量が不可欠なことは、高松塚古墳で教えられたという。末永雅雄氏や網干氏は、終末期古墳の立地条件を把握するため、墳丘周辺の測量を指示していた。「自然の地形を改変し、周辺部を取り込んで古墳が造られる。測量の範囲を広げたことは画期的だった。今もその経験は生きている」と振り返る。

 終末期古墳は切り出した尾根と一体で形成され、中国の風水思想を具体化したとみる研究者もいる。

 高松塚古墳の現場で印象的だったのは、築造年代の決定につながる土器を、先輩たちが懸命に探していたこと。土器形式の編年研究は古くから進められ、最近は木製品の年輪年代も判断材料となっている。

 西藤氏は「編年研究も大切だが、形式の編年が頼りにならないこともある」と話す。「考古学で掘っているのはほんの一部分。現代でも古い茶碗を使う家庭は多い。道具で場面を切り取ると、明治だったり江戸だったりする」。

 このような疑問を掘り下げるため、関西大学の修士課程を休学、米国のアリゾナ大学に1年間留学した。形式編年の限界を指摘していた米国人学者、ジェームス・ディーツの集中講義も受講、両大学で修士位を取得した。橿考研はもちろん、米国で考古学を学んだ数少ない研究者の一人だ。

 橿考研ではシリア・パルミラ遺跡の調査隊長も務め、昨年4月、県中南部の発掘調査を統括する調査第2課長に就任した。「高松塚の落し子」は、全国有数の調査・研究機関で飛鳥地域の調査を指導する立場になった。「自分にとって、いろんなことが高松塚古墳から始まっている」という。


「あすか」から明日香への便り

 NHKの連続ドラマ「あすか」の放送に合わせて明日香村が企画。命名のエピソードや託された期待を通して、同村のあるべき姿を探るのが目的だった。1350字以内の条件つきで、平成11年6月から9月まで募集。寄せられた205通は森井実教育長ら7人で審査し、特選1点、入選2点、佳作25点を選んだ。命名の動機には、言葉の美しさや歴史的背景を挙げた人が多く、「女帝を数多く輩出した地域だから」と記した便りもあった。昭和60年3月に開設された南極観測基地も「あすか」。命名を提案した越冬隊長、福西浩さんからも便りが寄せられた。命名の理由は飛鳥文化が新しい時代を切り開いたこと、新基地の背後に迫る山地の眺めが大和三山に似ていることだったという。


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