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第一部 それぞれの高松塚

その瞬間見た法学部生 学生たち〔5〕

 関西大学考古学研究室には、文学部以外から出入りする学生も多かった。石田修氏もその一人。法学部に在籍しながら、発掘現場に足を運んだ。高松塚古墳の調査には初日から参加。網干善教氏とともに壁画発見の瞬間に居合わせた数少ない学生の一人となった。


漆塗り木棺を慎重に運び出す学生ら
漆塗り木棺を慎重に運び出す学生ら(花井節二さん提供)


 網干氏が語ったように、壁画が見つかったのは昼休み。大半の学生は昼食をとるため休憩所に戻っていた。現場に残ったのは石田氏(当時3年)と松本信夫氏(同4年)の2人だけ。網干氏に言われて盗掘坑から中をのぞいた石田氏は「確かに絵のようですわ」と報告したのを覚えている。

 「遺物にばかり気をとられていた。壁画にどれほどの重要性があるのか、すぐにはピンとこなかった」と振り返る。床に見えたコの字型の茶色い物体は、漆塗り木棺の残がいだった。

 小学生のころ、歴史のとりこになった。関西大の文学部を受験したが残念ながら一歩及ばず、合格した法学部に進んだ。しかし、「自分の手で遺跡を掘ってみたい」という夢は捨て切れず、歴史研究部の門を叩いた。そこで考古学研究室の存在を知り、網干氏に「一度来てみなさい」と言われたことが、大学時代を遺跡発掘に捧げるきっかけとなった。

 「1、2年生はひたすら掘るばかり。とにかく先輩のやる事を見て覚えた。『勉強したければ自ら学べ』という気風があった」。法学部の同級生も数人出入りしていたが、残ったのは石田氏だけだった。専攻分野の単位も取らねばならず、現場近くの前線宿舎で寝泊まりしながら、大学の講義に通う日も多かった。

 高松塚古墳の調査も、そうした生活の延長にやってきた。現場では、網干氏や県立橿原考古学研究所から派遣されていた伊達宗泰氏の指示を下級生に伝え、仕事を振り分けた。妻の京子さんも参加学生の一人。卒業から3年後に結婚した。

 卒業後、大阪府の堺市役所に就職し市内の発掘調査を担当してきた。今は市教委社会教育課主幹(文化財保護担当)を務めている。高松塚古墳で教えられたことは多い。その一つが、「まず保存を考える」こと。「発掘は何が出てくるか分からない。重要な発見があっても決して自分のものではなく、保存と記録を優先させなければならない」と話す。

 高松塚古墳では、発掘の総指揮者だった末永雅雄氏が石槨(かく)の速やかな閉鎖を決断、その背景にあったのは、「次代の日本国民に伝えるべき」という気持ちだった。

 報道発表のあり方も学んだ。「発表の仕方によっては、石室というだけでイメージが膨らみ、石舞台古墳のような巨大石室として伝わる可能性もある。大きいと言う場合はどのように大きいのか、何が見つかったのか、本当の姿を的確に伝える必要がある」と話す。

 石田氏には、末永氏にまつわる一つの思い出がある。高松塚古墳の調査現場。学生たちは互いにたばこを出し合って竹の筒に入れ、補給しながら大切に吸っていた。それでもふんだんに買えるだけの金はなく、少しずつ本数は減っていた。

 ある日、末永氏が現場を訪れ、学生たちに事情を聞いた。翌日、「恩賜のたばこ」が大量に届けられたという。「いつも学生のことを気にかけて下さった。健康診断も定期的に行われた」と懐かしむ。

 石田氏の先輩にあたる吉岡哲氏(大阪府立山本高校教諭、「学生たち〔4〕)の思い出はライスカレー。関西大近くの食堂が、末永氏の御用達だった。「先生から『ライスカレーを買ってきてくれ』とよく頼まれた。研究室に運んだことを今も覚えている。同じ河内の出身ということもあってか、かわいがって下さった」。

 末永氏の死去から10年が過ぎた。学生たちにとっては、話すことさえはばかられる「雲の上の人」だったが、発掘に向かう姿勢や現場での思い出は、今も温かい光を放ち続けている。


メモ 高松塚古墳の出土遺物

 墳丘の版築(はんちく)がかく乱を受けていたことで、調査の早い段階で盗掘が明らかになった。遺体を納めた石槨に到達するため、墳丘は幅2メートルほどの盗掘坑に深くえぐられていた。
それでも、石槨内では多くの遺物が見つかった。漆塗り木棺の本体は長さ約2メートル、幅57センチ。顕微鏡などを使った分析により、漆を塗った木棺に麻布を張り、さらに漆を重ねて金箔を張っていることが分かった。極彩色壁画に囲まれた石槨内には、金色に輝く木棺が納められていた。金銅製透飾金具(直径10.8センチ)など、木棺を飾った付属品も見つかった。
 石槨の南寄りにあった海獣葡萄鏡は直径16.8センチ。名前の通り、中央の鈕(ちゅう)を囲むように、葡萄と獅子の文様が浮き彫りにされていた。網干氏は隋唐鏡と位置づけ、後期古墳で見つかる漢式鏡とは一線を引いている。ほかにも、大刀の鞘(さや)を飾る銀製の山形金物や鞘尻につける石突(いしづき)などが見つかった。「銀荘唐様大刀」と呼ばれるもので、正倉院宝物との共通性も注目を集めた。
 玉類は936個のガラス製粟玉を確認。琥珀(こはく)製と琉璃(るり)製の丸玉もあった。玉類は、石槨内のたい積土を女子学生らがふるいにかけて拾い出した。


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