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第一部 それぞれの高松塚

考古学に市民権与えた 学生たち〔3〕

 「高松塚は私にとって出発点であり終着点。新しい遺跡が見つかっても決して遠ざかることはない」。当時2回生だった森岡秀人氏(50)は関西大学を卒業後、兵庫県の芦屋市役所に就職した。市教育委員会文化財課の係長として、今も発掘調査を指揮している。


高松塚古墳で調査を進める学生ら場で記念写真に収まる学生たち
高松塚古墳で調査を進める学生ら=昭和47年(花井節二さん提供)


 若い調査技師たちと話す時、高松塚古墳の調査がすでに「歴史年表上の話」であることを感じるという。「風化したのではなく、過去に起こった事件的な出来事として受け止められている」。高松塚古墳の調査は昭和47年。考古学史に残る成果はそれ以降の方がむしろ多い。

 県内に限っても、太安万侶墓(昭和53年)、藤ノ木古墳(同60~63年)、そして再び「戦後最大の発見」といわれた黒塚古墳(平成9~11年)など、いずれも国民的な関心を集めた。高松塚古墳の調査は、それらをさかのぼる考古学的事件の一つとして、若い技師たちに記憶されている。しかし、森岡氏にとっては調査、研究の基準点であり、他の遺跡に置き換えられない。

 「見た目や先入観でものを見ず、中身を調べて判断する姿勢が身に付いた。遺跡に対する感覚が変わった」と話す。高松塚古墳は直径わずか20メートルの円墳。発掘調査が行われるまで、壁画があるとは誰も想像していなかった。

 もう一つ、高松塚古墳で習得したことがある。調査結果に動じないこと。「何が見つかっても変にあわてることがない。学生時代に高松塚を経験したおかげで落ち着いて考古学に取り組めた」。多くの普遍的なものから新しい結論を導き出そうとする森岡氏の研究姿勢は、そのような環境に裏打ちされている。

 調査現場での冷静さは森岡氏の調査日誌からもうかがえる。学生時代、考古学研究室の先輩から「メモ魔」と呼ばれるほど、森岡氏の記録は詳細だった。高松塚古墳の調査でも、日々の感想と成果を大学ノートにつけ続けた。

 世間の関心は壁画に集中したが、いくつかの土器が墳丘の盛り土から見つかっていた。築造時にまぎれこんだ土器は年代の特定に結びつく。「ノートの記録を見ると、壁画が見つかってからも土器に強い関心を持っていた。墳丘基盤の土器が何を物語るのか考えようとしていた」という。残念ながら、阪神大震災以後、ノートの所在は分からなくなった。

 「発掘は結果よりも過程が大切」というのが森岡氏の調査姿勢だ。「結果だけ並べると、遺物や遺構の羅列になってしまう。調査のどの部分で考え、悩んだのか。それを綴ることで結果を整理できる」。高松塚古墳の調査を指揮した末永雅雄氏は、「発見」ではなく「検出」という言葉を使った。「誰が掘っても出るものは出てくる。どのように出したかこそ重要」。森岡氏は「検出」という言葉に込められた末永氏の思いをそう解釈している。

 昭和47年当時、考古学に対する世間の関心は決して高くなかった。森岡氏自身、高校の進路指導で「考古学をやるなら社会科の教師になってからの方がいい」と担当教諭に諭された。「考古学で飯は食えない時代」だった。

 ところが、高松塚古墳の調査以降、発掘技師を採用する自治体が増え、関西大学考古学研究室にも40人近い1年生が訪れた。それまでは毎年数人程度。「冷や飯食いと思われていた考古学の世界が、『親も進める考古学』になった。自分たちのすぐ下にそのような世代が生まれたことは大変な驚きだった」と振り返る。

 現実には夏も冬も泥だらけになって土を掘り返す厳しい仕事。森岡氏は後輩たちに「高松塚が考古学を選んだ動機ならもう一度考えた方がよい。同じような調査は1000分の1つ。今後は残り999の調査を担うことになるかもしれない」と話したことがある。心配するまでもなく、夏休みが終わるころ、研究室に顔を出す1年生は4分の1に減っていた。

 それでも、高松塚古墳の調査が考古学に市民権を与えたことは間違いない。「高松塚がなければ多くの遺跡が破壊されていたはず」。佐藤内閣の田中角栄通産大臣(当時)が「日本列島改造論」をぶち上げたのは、同じ昭和47年の6月だった。

 森岡氏が今も思い出す出来事がある。壁画発見の前日、3月20日に明日香村を襲った嵐のことだ。朝から強風と大雨に見舞われ、飛び散る砂で目も開けられなかったという。調査は午前中で打ち切られた。

 奈良地方気象台の記録を見ると、その年の春一番だったことが分かる。発達した低気圧の影響で県南部の雨量は100ミリ近くに達した。「あんなにひどい気象条件はそれ以後経験したことがない。墓を開けられまいとする被葬者の最後の抵抗だったかもしれない」。発掘にかける学生たちの情熱が通じたのか、翌日は「どうぞ」と言わんばかりの晴天だった。


昭和47年3月の天気

 奈良地方気象台には、月ごとの詳細な気象記録が残っている。概況を見ると、2月末から3月の初めにかけて冬型の気圧配置が続き、積雪やにわか雪が多かった。ちょうど高松塚古墳の調査が始まったころにあたる。中旬に入ると天気が周期的に変わり、17日以降は平均気温が例年を大幅に上回った。18日の最高気温は22.8度まで上昇、20日に春一番が記録された。この日の最大瞬間風速は19.4メートル。県南部の雨量は30~90ミリに達し、大荒れの1日だったことが分かる。壁画の発見はこの嵐で1日遅れた。ただ、外気の湿り気が多くなり、壁画を乾燥から守ったとする見方もある。


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