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第一部 それぞれの高松塚


しっくいで髪の毛白く 学生たち〔2〕

 「家に帰ると、『頭が白くなってるよ』と母親に言われた。パウダー状になったしっくいだった」。当時3年生だった広瀬(旧姓・東)永津子さんは、壁画発見の当日、石槨(せっかく)に身を乗り入れた最初の人となった。

高松塚古墳の発掘現場で記念写真に収まる学生たち
高松塚古墳の発掘現場で記念写真に収まる学生たち(昭和47年撮影)
前列左から2人目が広瀬さん


 調査に参加した学生の中では一番小柄。網干善教氏から内部の様子を観察するよう指示を受けた。高松塚古墳に盗掘者が入ったのは鎌倉時代ごろ。それから何百年もの間、石槨は密封されたままだった。

 「壁画の様子を報告する声で空気が振動し、風化したしっくいがほこりのように舞い落ちた。その時は全く気付かず、母親に言われて『アッそうか』という感じだった」。広瀬さんにとって、高松塚古墳の調査で最も印象深い思い出の一つだ。

 盗掘坑は南壁上部をえぐるように開けられ、そこから大量の土砂が流れ込んでいた。広瀬さんは2年生の森岡秀人氏に足を預けて石槨内に上半身を滑り込ませた。「当時の身長は149センチ。今なら小学校6年生くらいの体格で、壁に触れずに入ることができた」という。

 斜めに流れ込んだ土砂に体を乗せたまま、顔だけ動かして四方の壁画を観察。外で森岡氏がそれをメモする。「最初に見えたのは右奥の女子群像。『プリーツ状のスカートをはいた女の人がいます』と言ったはず」と微笑む。入る前に分かっていたのは人物らしき壁画があるということだけ。玄武の正体は想像できず、「正面はどうや」と聞く網干氏に「輪のようなものが見えます」と報告した。

 こうして、国内で初めて見つかった極彩色壁画が展開図に描かれていった。広瀬さんは「青竜や白虎についても『何か描いてある』という程度で、当時の知識では的確に表現できなかった。網干先生の目のかわりとして、とにかく見たままを伝えた」と振り返る。

 調査が始まった3月2日からこの日まで、広瀬さんにとっても長い道のりだった。当時、男子学生が墳丘を掘り進み、女子学生は測量や土器洗いなどの仕事が主だった。版築(はんちく)でつき固められた墳丘は岩のように硬く、周辺の測量を続けながら進展を待った。「日を重ねるのに調査が進まず、なかなか主体部が出てこないというイメージだった。現場に来た先輩たちは『まだまだこれからや』と言っておられましたね」。

 壁画の発見が発表されると、周辺は連日見学者で埋まった。調査で動き回る学生たちも、見学者の視線にさらされた。広瀬さんには笑い話のような思い出がある。大勢の見学者が見守る中、竹の根につまずいて転んだ。膝をしたたか打ったが、恥ずかしいので声も上げられない。あわてて作業小屋に駆け込み、両手で膝を押さえたという。「動物園のパンダになったようであまりいい感じはしなかった」。

 それから30年の歳月が流れた。結婚後は香川県に移り住み、主婦として過ごしてきた。長女は大学生。当時を振り返って思うのは「高松塚は私の成長過程における通過点の一つ」ということ。香川県で埋蔵文化財の仕事に携わる夫や子供たちと、高松塚古墳の話をしたことはほとんどない。一度だけ、テレビ局から電話がかかり、茶の間の話題になった程度。

 「すごい調査だったという思いはあるが、先輩の調査に参加させてもらったという印象が強い」。当時広瀬さんは古墳時代の朱を研究していた。終末期古墳は対象外。高松塚古墳の調査が終わると自分の研究テーマに戻って行った。「香川県では高松塚といっても歴史の好きな人以外には一過性の出来事。発掘に対する温度差はかなり大きい」という。

 それでも、壁画発見の当日、粉末状のしっくいが髪の毛についた思い出は、強烈なリアリティーを持ってよみがえってくる。何百年も壁画と一体化していた空気を吸ったのは、広瀬さんただ一人だ。

 キトラ古墳では、デジタルカメラが石室内の様子を写し取った。壁画の図柄から傷み具合まで、内部の様子は手に取るように分かっている。ただ、映像を通して得られる感動は、広瀬さんが心に刻み込んだ感動とは別ものだ。研究者ならずとも、時代の流れを感じずにはいられない。


高松塚古墳のしっくい

 高松塚古墳のしっくい 高松塚古墳の石槨は、内壁と天井、床の全面にしっくい(厚さ2~7ミリ)が塗られていた。しっくいは石灰に粘土などを練り合わせた塗料。飛鳥地域では、キトラ古墳のほか、昭和52~53年にかけて明日香村などが調査したマルコ山古墳でも同様の使用例が確認されている。マルコ山古墳には壁画がなく、高松塚古墳との違いが論議を呼んだ。中尾山古墳や岩尾山古墳では、石材の間に詰めるなどして密閉度を高めている。天皇や大和政権中枢部を担った豪族の墓に使用例が多く、高松塚古墳の中間報告書は「支配者層の墳墓の造営が、共通する各種の技術者集団によって行われていたことを示す」と指摘している。
 傷みが進むと壁画とともにはがれ落ちてしまうことから、発掘後は保存対策が課題となる。高松塚古墳の場合は合成樹脂などを使った化学処置がとられ、石槨内はコンピューター制御の保存施設で発掘前の状態に保たれている。それでも壁画の劣化は確実に進んでいる。


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