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第一部 それぞれの高松塚

「常歩無限」の気風脈々 学生たち〔1〕

 大阪府吹田市の千里山に広大なキャンパスを展開する関西大学。半世紀の歴史を刻んだ考古学研究室は、博物館などが入る「簡文館」の一階にある。高松塚古墳が発掘された昭和47年当時は3階に末永雅雄氏の個人研究室、地下の2部屋が学生たちの拠点だった。末永研究室の入り口に掛けられていた「考古学研究室」の表札は、今も大切に保管されている。字は末永氏の直筆。現在の研究室を率いる米田文孝教授は「名誉教授になられてからも、学生たちの間を回って研究成果を聞いておられた。雲の上の人で、顔も上げられないほど緊張した」と振り返る。


「考古学研究室」「講義中」の表札
末永雅雄氏が筆をとった「考古学研究室」「講義中」の表札。
ケースに入れて大切に保管されている


 関西大学考古学研究室の歴史は、末永氏が教授として着任した昭和27年4月に始まる。県立橿原考古学研究所長を兼務し、すでに帝国学士院賞を受賞していた。研究室の開設30周年を記念して発行された論集に、末永氏の掲げた「士規七則」が掲載されている。

 一、寸陰を惜しめ
 二、生活は質素、研究費は放胆に使え
 三、独自の研究法
 四、体調に留意
 五、相互扶助
 六、先人の業績を尊重
 七、恩義を深く思念

 「士」は学士、修士、博士を指し、この論集の冒頭で、個人の研究姿勢と考古学研究室のあり方を示した。末永氏の研究姿勢は「常歩無限」に集約される。学問の進め方について「体力と努力が続けば短期間に仕上げる必要はない」とし、「常歩無限の研究室一丸の協力態勢」を求めた。

 「全員はきわめて冷静に研究と取り組み、微に入り細を穿(うが)ち、勇み足の成果発表にならないように心がけ…」との言葉は、「最古」「最大」に話題性を求める最近の考古学報道にも自戒となるものである。

 また、互いの研究について討議、協力できる「おおらかな美風」を重視した。志のある者が自由に出入りできる開放性は、今の研究室にも受け継がれている。今春、学外から2人の新メンバーが研究室に加わった。卒業生の松村まゆみさんと姫路工業大で古地磁気を研究していた千葉太朗さん。いずれも修士過程で考古学を学んでいる。千葉さんは「年代測定を通じて考古学に触れたのがきっかけ。須恵器の窯跡を研究したい」という。

 50年の歴史が刻んだ卒業生の層の厚さも、研究室を支える大きな糧となっている。行政や研究機関で専門職に就いた卒業生は約200人。大半は今も調査・研究の第一線で活躍している。米田教授は「教授は店番のようなもの。卒業生がどんどん盛りたててくれる。それがあってこその関大考古学」と笑顔を見せる。

 「貴重な調査だから学生を補助員として派遣しては」「最新の調査成果を教えてあげたい-」そんな連絡が卒業生から寄せられる。考古学研究室は毎年夏休みを利用して遺跡の長期調査に取り組んでいるが、派遣先は卒業生の紹介による場合が多い。調査は近くに宿舎を借りた合宿形式が伝統。院生が現役の学生を統率し、夏休み中に終わらなければ院生が残って引き継ぐ。調査中は宿舎から大学に通う学生もいるという。

 昨年は御所市が行った條ウル神古墳と平安時代の古墓の調査に参加。條ウル神古墳では、石舞台古墳に匹敵する巨大な横穴式石室が見つかり、全国の話題を集めた。昨年の夏から今春まで、参加期間は約8カ月に及んだ。共同生活を続けながら調査結果を報告し、意見をぶつけ合う。末永氏が求めた「研究の協力」「研究室一丸の協力態勢」は、網干善教氏から米田教授、現役の学生たちへと途切れることなく受け継がれている。

 関西大学考古学研究室の名を一躍有名にした高松塚古墳の発掘調査も、このような伝統に重要な一ページを添えている。この時、末永氏が「高松塚調査三則」として学生たちに示したのは、

 (1)健康に留意せよ
 (2)各自の研修を怠るな
 (3)見学大衆による動揺をしてはならない

の3つだった。


関西大学考古学研究室と飛鳥

 末永雅雄氏は昭和27年から関西大学の教授を務め、同45年4月、名誉教授となった。後を受けた網干善教氏は故郷である明日香村の調査を精力的に進めた。文武天皇陵説が強い中尾山古墳(昭和49年)やマルコ山古墳(同52年)を村教委とともに発掘調査。複室構造の石槨を持つ牽牛子塚(けんごしづか)古墳(同)の調査では、亀甲形の七宝座金具や金銅製八花文座金具など、豪華な副葬品の一部が見つかった。大量のせん仏(寺院の堂内装飾などに用いられた土製の仏像)が出土した川原寺跡裏山遺跡の調査など、いずれも考古学研究室の学生たちが参加している。
 さらに、飛鳥地域における関西大学の活動拠点として、飛鳥文化研究所が昭和50年にオープン。同62年には新館が完成した。本館(旧館)を合わせた延べ床面積は約3000平方メートル。棚田が美しい同村稲渕にあり、網干氏が所長を務める。考古学研究室がファイバースコープ調査(昭和58年)に先立って行ったキトラ古墳の測量調査でも、宿舎として活用された。峠越えで約50分の道のりを、学生たちは毎日歩いて通ったという。


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