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第一部 それぞれの高松塚

「心」の源流求め印度へ 網干善教氏〔3〕

 「私にとって高松塚だけが特別なのではなく、一連の流れの一つだった。ただ、出来事としてあまりに大きかった」。明日香村で育ち、中学生のころから末永雅雄氏の指導を受けた網干氏にとって、飛鳥地域の研究は生涯をかけたテーマだった。

 高松塚古墳の発掘当時は44歳。「考古学をやらなければいけない。他のことを考えてはいけない-」。その思いは高松塚古墳の調査を通じて一層強まった。

 一方、極彩色壁画の発見が考古学界に与えた衝撃は大きく、研究者の間でさまざまな論議が巻き起こった。玄武の顔はなぜ削られたのか、被葬者は誰か、朱雀は最初から描かれなかったのではないか…。高松塚古墳には多くの謎が残されていた。

 網干氏は「思いつきだけで論じたような本が次々と出版された。『これでは学問にならない。自分がきちんとしたものをまとめる必要がある』と思った」と振り返る。調査担当者としての使命感は、論文『高松塚古墳の研究』となって結実した。

 「分からないことも学問の一つ」というのが網干氏の持論だ。調査の発端となった切り石に文字はなく、「墓誌ではないと分かった時点で被葬者の特定はあきらめた。学問は比較研究であり、思いつきではない」と話す。

 もう一つ、高松塚古墳の調査を通じて到達したテーマがあった。日本人の心の源流を探ること。壁画の研究は中国や朝鮮半島の古墳に視点を移さなければ進まない。「流れを汲むものはその源流を探る必要がある」との考えは、仏教の聖地、祗園精舎遺跡(サヘート遺跡)へと向けられた。

 飛鳥は仏教伝来の地。網干氏は蘇我稲目が初めて仏像を祭ったとされる豊浦寺跡の調査にも参加していた。「日本人にとって最も大きな流れは仏教思想。そこに心の源流を求めるべきだと感じた」。

 末永氏ら当時の「大学者」は、戦中に海外調査を経験していた。網干氏の学生時代は敗戦直後。海外調査など考えられなかった。出身の龍谷大はシルクロードを踏査した大谷探検隊と関係が深く、「いつか必ず」という気持ちだけは常に持ち続けていた。

 しかし、戦後30年以上が過ぎても日本人がアジア諸国で発掘調査を行うことは容易でなかった。道を開いてくれたのは、以前から親交のあった壷阪寺の常盤勝憲住職。ハンセン病の治療事業を通じてインド政府と深い関係があった常盤住職は、網干氏の思いを直接伝えた。

 同国政府は前向きの姿勢を示し、関西大はインドへの調査団派遣を創立100周年記念事業の一つに決定。歴史や美術など、多方面の研究者で調査団が編成されることになった。調査経費の1億3000万円は、関西大の教育後援会が寄付した。

 こうして昭和61年12月、網干氏を派遣隊長とする第一次調査隊が大阪空港を出発。日印共同の発掘調査が祗園精舎遺跡で始まった。調査は平成11年まで10年以上にわたって続けられ多くの成果を残した。ここでも調査の核となったのは関西大の学生たち。調査終了までに約30人が参加した。

 出土した遺物は日本に持ち帰ることができず、現地で実測や写真撮影を済ませた。現場はヒンドスタン高原の真っ只中。限られた時間と慣れない環境の中、隊員の努力は筆舌に尽くし難いものであったという。

 平成9年に発行された調査報告書は、本文編だけで1462ページに及ぶ。網干氏はその最後に参加した学生たち一人ひとりの名前を挙げて努力をたたえ、「海外調査で得た体験と学問的視野の拡大、異文化に対する理解などは考古学研究のみならず、人間形成の上にも生かされるであろう」と記した。風土、習慣すべてが異なるインドで学生時代の1ページを刻んだ学生たちは、その多くが考古学の調査・研究機関に就職した。

 網干氏は「学生たちは単に作業員として参加したのではない。志を一つにし、学問的な情熱を持って調査にあたってくれた。10年、20年とたった時、立派に成長し学界のために尽くしていることを願って全員の名前を入れた」と打ち明ける。高松塚古墳の中間報告書にも、参加学生すべての名前が記されていた。

 「学問をするためには誇りを持たさなければならない。考古学は教育の場であり感動を受けることによって人生の目標が定まる」。高松塚古墳の調査は多くの若い研究者を育てた。同じことは祗園精舎遺跡でも言える。

 30年が経過した時、参加した"学生"たち一人ひとりの下で、新たな学問の担い手が育っているに違いない。


祗園精舎遺跡(サヘート遺跡)の調査

 祗園精舎は、釈迦に帰依したコーサラ国富豪が、同国の首都だった舎衛城郊外に建てた説法施設。釈迦はここで「阿弥陀経」を説いたとされる。日本では『平家物語』『今昔物語集』などの古典に登場し、古くから仏教の聖地として知られていたことが分かる。遺跡の範囲は南北400m、東西250m。1863年から散発的に発掘調査が行われ、出土遺構は公園として整備されている。関西大学とインド政府の共同調査は未発掘地の遺構を可能な限り明らかにすることが目的で、昭和61年から同63年(第1~3次調査)にかけて行われた。それ以後は文部省の科学研究費の補助を受けて調査対象を舎衛城に拡大。平成11年まで続けられた。祗園精舎遺跡では、沐浴(もくよく)池や寺院とみられるれんが積みの建物跡、僧房遺構などが新たに見つかった。関西大学が出資した第3次調査までの報告書は、平成9年に同大学から発行された。


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