このページでは、Javascriptを使用しています

 第一部 それぞれの高松塚

壁に顔「間違いでは・・・」 網干善教氏〔2〕

 奈良地方気象台に昭和47年3月1日の気象記録が残っている。橿原方面は朝から雪。網干氏の記憶によると、明日香村は20センチ近い積雪だったという。初日の作業は中止と決まった。

 晴天に恵まれた翌日、墳丘周辺の測量から調査が始まった。周辺部を重視したのは終末期古墳の墓域や立地を正確に把握するためだった。墳丘部の測量は関西大考古学研究室によって昭和45年に行われ、直径18メートル、高さ5メートルの円墳と確認されていた。

 慎重を期した測量や竹やぶの伐採に数日を費やし、発掘に着手したのは3月6日。芋の貯蔵穴に顔を見せた凝灰岩切り石の正体を突き止めるのが最初の仕事だった。ようやく掘り出された切り石は一辺約60センチ、厚さ36センチ。方形に加工されていた。

 ところが、石材はこの一個だけ。埋葬施設への糸口はプッツリと切れ、調査担当者の期待は序盤からくじかれることになった。「墓誌ではないか-」。網干氏は新たな期待を抱いたが、取り上げた石には何の文字も刻まれていなかった。

 埋葬施設を求めて墳丘の中心部へ調査を進めることになり、幅2メートルのトレンチ(試掘溝)が墳丘南斜面に掘りこまれていった。高松塚古墳の墳丘は、盛り土を一層ずつ叩きしめる版築(はんちく)と呼ばれる工法で築かれている。一つの層の厚さは5~10センチ。その間に粘土分の多い土が薄く挟まれていた。

 「一般的に最もしまりやすい土」(中間報告書)で、入念な叩きしめによって凍り付いた丘のように硬い墳丘が築かれていた。密閉度の高い墳丘は壁画の保存に重要な役割を果たしたが、鍬(くわ)を振るう学生たちには大変な負担となった。

 おまけに石室はなかなか姿を見せない。「学生の間からは『何も出ません。もう終わりにしましょう』という声も上がり始めた。必死に励ましながら調査を続けた。18日の夕方、スコップがカチンという音を立てた」。石槨(せっかく)の天井を構成する凝灰岩の切り石だった。

 翌日の調査で石槨の南石材と盗掘坑を確認。半月間ひたすら探し求めてきた埋葬施設はもう目の前にあった。期待された20日の調査は突然の嵐で中止。こうして壁画発見の3月21日を迎えることになった。

 当日。調査が山場を迎えているため交代で昼食をとることになり、現場に残った網干氏と学生2人が、盗掘坑の土を取り除き始めた。中がのぞける状態になったのは午後0時半ごろ。網干氏は「両側の壁に青い物が見えた。最初はコケかと思ったが、その中に腰ひものような物が描かれていた。よく見ると顔もある。最初は何かの間違いではないかと思った」と振り返る。昼食組の学生たちは直ちに呼び戻された。

 「中に人物の絵がある。日本の古墳では初めてのこと。大変な騒ぎになるので何も言わずに指示に従ってほしい」。網干氏は学生たちにそう告げて「他言無用」を徹底させた。

 当時、末永雅雄氏は東京の宮内庁に出張していたが、網干氏の緊急連絡に対する対応は的確だった。懇意にしていた京都の写真会社に翌日午前の写真撮影を依頼。村長、橿原署、県への連絡と不寝番を網干氏に指示した。

 翌22日、午後8時までかかって写真撮影が行われ、盗掘孔はすぐに封鎖された。末永氏はこの措置について「末永は資料を独占すると非難されたことがあった。私の最初からの考えは、日本の唯一の古墳壁画であり、ことに法隆寺の壁画が焼けてなくなったことを考えると、日本では壁画と称するものは高松塚しかない。(中略)まず保存を第一にして、完全に保存ができれば調査研究は後でもよいという考え方だった」(『なにわ塾叢書12』)と語っている。

 報道発表は26日と決まった。前日の25日、網干氏は発表日時を伝えるために橿原市役所内の記者クラブを訪れた。26日はあいにく橿原市長選の投票日。県下初の革新市政の誕生が予想されていた。発掘記事など新聞の片隅にしか載らない時代。クラブ詰めの記者からは「そんな日に発表しても載らないよ」という声が上がった。

 網干氏は「奈良版だけが新聞ではない。一面もあるでしょう」と反論。発表内容は言わないつもりだったが、男子群像の写真を一枚だけ見せた。実はすべての写真を腹巻きにしまって持ち歩いていた。絶対なくさないようにとの配慮だった。記者たちの動きが急にあわただしくなった。

 全国から多くの見学者が押し寄せる中、発表から10日後の4月5日、高松塚古墳の調査と保存事業は文化庁に引き継がれた。


メモ 終末期古墳

 古墳時代は大きく前期(3世紀末~4世紀)、中期(5世紀)、後期(6世紀)に区分され、7世紀以降の古墳を終末期古墳と呼んでいる。古墳時代の象徴だった前方後円墳の築造が止まる時期で、厳密には六世紀末も終末期に含まれる。橿原考古学研究所副所長の河上邦彦氏は飛鳥地域の終末期古墳を二時期に分類。硬質の花こう岩から凝灰岩への転換に注目し、近江を拠点とする渡来系石工集団が「壬申の乱」後に飛鳥から一掃された結果、加工しやすい凝灰岩を使わざるを得なくなったとしている。
 古墳の特徴としては・雹・寬困僚名・伐莪豌序t糸ア儼訴・虜陵劍ヵ嵶佑亮侈未鮑錣蟒个糠慳魅・奪箸噺討个譴訝杪な・,覆匹・鵑欧蕕譴襦・仄爾僚名・Σ莪豌修蓮・膕ス2(646)年に孝徳天皇が出した詔(みことのり=大化薄葬令)の結果といわれる。身分に応じて墳丘や石室の大きさが規制された。高松塚古墳の横口式石槨はこの基準にほぼ収まる。ただ、7世紀代にも巨石を用いた横穴式石室が造られており、薄葬令の有効性を疑問視する研究者も多い。
 八角形墳は天皇や皇子の墓に採用され、飛鳥地域では、天武・持統合葬陵、文武陵説が強い中尾山古墳などがある。白石太一郎氏は「大王ないし大王家が一般の豪族から超越した存在であることを明確に意識し、それを主張しようとするようになった」(『古代を考える-古墳』)としている。これまでの研究では、高松塚古墳、キトラ古墳ともに円墳で、被葬者論にも影響を与えている。


<<前へ | 次へ>>

会社概要採用情報新聞購読出版情報個人情報保護特定商取引法に基づく表示サイトマップ