このページでは、Javascriptを使用しています

 プロローグ

30年ぶり初の"同窓会"

昭和47年3月1日、明日香村平田に位置する直径20メートルほどの円墳に調査道具を抱えた学生の一団が到着した。網干善教氏率いる関西大学考古学研究室の学生たちだった。それから20日後、彼らは極彩色壁画の発見という金字塔を日本の考古学史に打ち立てることになる。

同窓会

 石槨(せっかく)と呼ばれる奥行き2.7メートルほどの石室には、四方の守護神「四神」と「星宿(せいしゅく)」、男女の群像が描かれていた。日本の古墳に壁画が存在するなど、夢にも思わない時代の「事件」だった。高松塚古墳の名は、30年前の3月26日に行われた調査発表、それを受けた報道で全国に広がり、誰もが認める国民的財産となった。

 築造時期とされる7世紀末~8世紀初めは日本が本格的律令国家に移行した時代。政治の中心が藤原京(694~710)に移り、古墳時代も幕を閉じようとしていた。今から1300年前も前のことだ。

 「戦後最大の発見」といわれた高松塚古墳の調査は、県立橿原考古学研究所(橿考研)が主体となって行われた。最高指揮者は同研究所の生みの親、故末永雅雄所長。予算の関係もあって作業員は雇わず、末永氏と関係の深い関西大と龍谷大の学生達が手弁当で働くことになった。当時橿考研には常勤の研究員が置かれたばかりで、高松塚に十分な人員を割く余裕はなかった。

 参加学生は計40人。橿考研の伊達宗泰氏(現花園大名誉教授)と関西大助教授だった網干氏(現名誉教授)が現場を指揮した。村内の宿舎に泊まりこんでの合宿調査で、当然春休みは返上となった。

 それから30年が過ぎた今年1月「高松塚発掘同窓会」と記した案内状が、調査に参加した学生達のもとに届いた。これまで関係者が一堂に集まる機会はなく、初めて実現した「同窓会」だった。

 末永氏は中間報告書「壁画古墳高松塚」の序文で、「調査参加学生の手記を見ると、発掘の努力を重ね、これを愛し、調査を続けたが、次第に自分達から遠ざかりゆく悲しみを書いたものがあった。それほどまで高松塚古墳を愛する感情を持って調査に努力していたたかと驚いた。今これを書きながらもなお胸がつまる」と記している。

 壁画の発見後、連日冷たい土と戦ってきた高松塚古墳は国の管理にゆだねられ、「遠いところに行ってしまった」と感じた学生も多かったという。

 2月24日の午後、明日香村島ノ庄の村商工会館に、50歳前後の男女が次々と姿を現した。考古学の調査機関に席を置く者、民間企業で働く者、主婦・・・。30年前の1カ月を高松塚で過ごした学生達は、それぞれ違う道を歩んでいた。約20人が集まった。

 会場では、網干、伊達の両氏を囲んだ"学生"たちの近況報告が続いた。「一生で一回か二回、すばらしい調査に出会える。高松塚は忘れられない思い出」「墳丘の筒は鍬(くわ)が刺さらないほど固かった。他の古墳を掘るたびに、高松塚はこんな土ではなかったという記憶がよみがえる」「発掘のいろはを高松塚で教えられた。現場の感性を育ててくれた古墳」・・・。

 一人ひとりのあいさつにじっと耳を傾けていた網干氏は「人にはそれぞれの生き方があり、思い出や判断がある。人生とはそういうもの。高松塚発掘の意義がみんなの人生の中で生き続けていることを知って本当にうれしい」と感無量の面持ちで話した。

 同窓会は「学生たちの30年後の思いを知りたい」と網干氏が発案したものだった。この後、高松塚古墳に出向いて記念撮影。周辺は国営飛鳥歴史公園として整備され、古墳の入り口はコンクリートで固められた。すっかり様子を変えた風景に「明日香も変わったな・・・」とつぶやく参加者もいた。

 今年、高松塚古墳は壁画発見から30年の節目を迎えた。色鮮やかな壁画は最先端の保存設備で今も色あせることなく保存されている。しかし、その成果は早くも歴史上の出来事になろうとしており、調査を指揮した末永氏も鬼籍に入って10年が過ぎた。

 一方、同村阿部山のキトラ古墳で四神壁画が見つかり、これまで国内で唯一無二だった壁画古墳に比較対象ができた。高松塚古墳は新たな研究の時代を迎えたといえる。

 調査を支えた人々の中で高松塚古墳がどのように生き続けているのか、発掘30周年を機会に振り返り、最新の研究成果をまじえて21世紀の明日香像を探る。


末永雅雄

 明治36年6月、大阪府南河内郡生まれ。京都帝国大(現京都大)で浜田耕作氏に考古学を師事。昭和11年、「日本上代の甲冑(かっちゅう)」で帝国学士院賞を受賞。同13年、県史蹟名勝天然記念物調査会の委員として「橿原遺跡」の調査を担当し、現場に設置した調査事務所が県立橿原考古学研究所の母体となった。同研究所は末永氏が現場に入った昭和13年9月13日を今も開設記念日としている。以来、同55年10月まで初代所長を務めた。その間、大谷、龍谷、大阪経済などの大学で教壇に立ち、昭和27年、関西大教授に就任(同45年、名誉教授)。徹底した実証主義で多くの研究者を育てた。高松塚古墳のほか、石舞台古墳(明日香村)や、新沢千塚古墳群(橿原市)、和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)。飛鳥京跡などの発掘を指揮。文化功労者、平成3年5月、93歳で死去う。


     | 次へ>>

会社概要採用情報新聞購読出版情報個人情報保護特定商取引法に基づく表示サイトマップ