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もくじ
奈良のふるさとのはなし

三つの問題
鹿殺し裁判

のせがわのむかしばなし
蕎麦の軸の赤いわけ
天狗の扇
蟹の報恵
ふくろうの染物屋と烏
 (野迫川村要覧より)

悲運の皇子 自天皇
-その1-
-その2-
 (川上村「後南朝と川上村」より)

十津川妖怪譚
だる/ダル
天狗/テング
ごうら/ゴウラ
山女郎/ヤマジョウロ
山姥/ヤマンバ

一本だたら/イッポンダタラ
山小屋の怪異/ヤマゴヤノカイイ

「神饌」神々との宴
1.往 馬 大 社
2.門 僕 神 社
3.談 山 神 社
4.八 幡 神 社
5.倭 文 神 社
6.高 山 八 幡 宮

その他のおはなし
四社神社秋祭り
安堵町・なもで踊り

日本の造林王
土倉庄三郎

東吉野が育んだ秀句紀行
「原 石鼎」



奈良のおはなし
東吉野が育んだ秀句紀行
原 石鼎
(はら せきてい)

原 石鼎

 「石鼎君を思ふと、すぐ吉野山時代を思ひ出す。それが石鼎君の最も優れた作品ばかりでなく、俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於て輝いた時代を形づくったものとして尚私の記憶にある。」
と『石鼎句集』の序文に添えられた俳句界の先輩・高浜虚子の言葉。まさに絶賛である。

 原石鼎、本名(かなえ)は明治19年(1886年)島根県簸川郡(ひかわぐん)、現在の出雲市に生まれた。原家は代々医者の家系で、父も兄も開業医という環境の中で育つ。

 15歳で松江の新聞「山陰新報」に入選。このころより短歌、俳句を作るようになる。本人は美術か文学の道を志望したが、父兄に反対され京都医専に入学。しかし2年で中退し、文学や絵の修行の果てに当時奈良連隊軍医の次兄のもとに身を寄せた。

 その兄と共に小(おむら)の出張所で医療を手伝いながら、短歌や俳句を作っていた。石鼎26歳の時である。

 その後1年余りの間、石鼎は朝早くから夜おそくまで兄の代診をし、就寝前になってやっと句や歌の創作に励むという生活。

 その間はわずかの休診、余暇を使って吉野一帯から宇陀までも足をのばし深吉野(みよしの)の大自然と山人の情にふれ、数多くの優れた名吟を詠いあげたのである。

 1915年、小を後にした石鼎は上京して虚子主宰の「ホトトギス」に入ったが、21年石鼎35歳の時、「鹿火屋(かびや)」を発行・主宰。それからも「花影」「石鼎句集」を出版し作品を作り続けた。

 昭和26年、石鼎は多発性リュウマチ炎に狭心症を併発。臨終の際、「私の骨を深吉野に」の言葉を残し、65歳でこの世を去った。

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東吉野村教育委員会 原石鼎パンフレットより




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