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やまと建築詩

堀家住宅(賀名生旧皇居)

「南朝」温かく支える

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▲西熊野街道に面して建つ表門から見た主屋。どちらの建物も規模が大きい

 梅で有名な賀名生(あのう)は、南朝の後村上天皇が「南朝こそ正統でありたい」との願いを込めて、穴生(あのう)と呼ばれていた地を叶名生(かなふ)と名づけた。正平6(1351)年に足利氏が一時、南朝に降伏した「正平一統」により、願いがかなったとして「賀名生(あのう)」と命名したと伝わる。

 延元元(1336)年、後醍醐天皇は足利尊氏により京を追われ、吉野へ向かった。途中、立ち寄った西吉野で郷士の「堀孫太郎信増」は天皇を厚くもてなし、邸宅は後村上、長慶、後亀山と3人の天皇の皇居になった。これが、今も「賀名生皇居跡」として残る堀家住宅。表門に「賀名生皇居」と書かれた扁額は天誅組の主将、吉村寅太郎によるもの。幾たびも歴史の表舞台に登場する賀名生の生き証人とも言える民家だ。


▲太閤検地のさい7つ以上のカマは禁止されたが、堀家のカマは手をつけられず残された

▲皇居として使われたとき1階は武者だまりで、2階に天皇が居住したといわれる。1階の天井の桟は2階の床板だった名残

▲「賀名生皇居」と書かれた扁額は天誅組のリーダー・吉村寅太郎によるもの

 茅(かや)ぶき平屋建ての主屋は六間取りと大きい。田の字型に八畳間を四間取りし、奥へさらに二間を付けた。建物の半分はドマのダイドコロや伴部屋(トモベヤ)。室町時代後期の建築と見られ、もとは板ぶき2階建てだった。2階は天皇が使用し、1階は武者だまりとして、多くの武士が待機していた。その数は3000人とも伝えられている。


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▲よく手入れされた庭が美しい(広角撮影)

 永い年月の間に屋根を茅ぶきにするなどして改築され今の姿に。丈夫そうな天井板は元の2階の床板。黒光りする床板から当時の姿がうかがえる。昭和54年に国の重要文化財に指定され、平成10年に解体修理が行われたが、建物は大事に使われている。博物館などにはない、人が住まう建物の温かさが感じられる。平成11年には大正13年に再建された茅ぶき2階建ての豪壮な表門が県指定文化財になっている。



DATA

● 堀家住宅(賀名生旧皇居) ●

五條市西吉野町和田

住居として使用しているため普段は見学できない。

2月から3月上旬と11月1日から同8日までの年2回公開する。

見学希望者は往復はがきで申し込む。

見学料は1人300円で小学生以下は見学できない。

また、同家に伝わる宝物や南朝の歴史や天誅組の資料などを収めた五條市立賀名生の里歴史民俗資料館も近くにある。

情報が古くなっている場合がございますので、ご利用の際は必ず事前にお問い合わせください。

写真・文 本紙・藤井博信 (日本写真家協会会員)

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