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やまと建築詩

赤膚山元窯・古瀬堯三窯(奈良市) ◎登録文化財

実物が語る登り窯変遷

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▲江戸時代末期に作られた大型の登り窯。
大きな8つの焼成室には棚板などが残されている

 今年3月に、国の文化審議会が、戦前の「上路カンチレバー橋」として知られる三郷町の開運橋とともに登録有形文化財(建造物)の指定を文部科学大臣に答申した。

 豊臣秀吉の弟で大和郡山城主だった秀長が天正年間に尾張常滑の陶工、与九郎を招いて開いたのが始まりといわれる赤膚焼。小堀遠州や野々村仁清が訪れ指導したとも伝えられる。

 現在で七代目となる古瀬窯の歴史はそのまま赤膚焼の歴史といえる。赤膚山元窯(古瀬堯三=隠居名・治兵衛)は、天明(1781―)年間のころ、京都から赤膚山ふもとの五条山に入った治兵衛が、茶人としても高名な大和郡山城主・柳沢保光(やすみつ)の意向を受けて赤膚焼を再興したのが始まり。

 近年まで「中の窯」と呼ばれていたが、それは、この窯をはさみ東(岩蔵)と西(惣兵衛)の二つの窯が分立、中の窯の登り窯を共同窯として使っていたことに由来する。明治20年代に最盛期を迎え、昭和の初めごろには「中の窯」を残すだけとなった。

▲建物東南部には茶室が付属している

▲東側の展示室にも作品が数多く並ぶ

▲外から見るといくつかの建物が組み合わさった
ような展示室・作業場。中の軸組みは一体で
同時期に建てられたもの

▲わら入りの壁土で固められた登り窯

 今回、大型窯、中型窯、展示室・作業場の3件が登録された。明治後期に建てられた展示・作業場は和風建築ながら、小屋組みにトラス構造を採用。2階に上がるとむき出しの構造材がよく見える。この建物は当初、西側が絵付けなどをする作業場、東が展示施設と茶室など接待をする場所だった。骨格が共通のため同時期に建てられたものと分かる。昭和17年に西側庇(ひさし)を増築。同51年に1階中央に円柱を入れ補強。また、2階の内装を現代風に改装し、大半を畳敷きに。絵付けなどの教室として使っている。

 ここには敷地の傾斜を利用した登り窯が3基ある。大きいのは江戸時代末期のもの、中型が昭和23年から26年ごろにできたもの、一番小さいのは最近のもの。登り窯が小型化していった変遷が実物で分かる。大型(長さ17.5メートル)で8室、中型(9.7メートル)で5室、この2基が登録文化財になった。これらはレンガ造りで、特に中型は六代目古瀬堯三氏が職人と共に築造した。どちらもレンガの上にわら入りの壁土が塗られて補強されている。大きいのは昭和40年代中ごろまで使用、中型は50年代初めごろまで使っていたという。現在この2期は使っていないが、使用可能な状態で残されている。

 敷地には他にも多くの建物があるが、取り壊しや建て替えなど昭和51年ごろに、ほぼ現在の姿になったようだ。


DATA

● 赤膚山元窯 古瀬堯三窯 ●

奈良市赤膚町1049

予約すれば抹茶茶碗や皿などに一色の下絵付けができる体験も(小皿で630円から)

見学や問い合わせは電話0742(45)4517へ

毎週月曜日と第4水曜日は休み

情報が古くなっている場合がございますので、ご利用の際は必ず事前にお問い合わせください。

写真・文 本紙・藤井博信 (日本写真家協会会員)

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