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万葉の景色

衾道

葬送の道、今は鮮やか

衾道

▲万葉ファンにはよく知られた衾道。定かではないが衾田陵(後方左)に至る
葬送の道がそれという説が一般的だ(天理市中山町)

 天理市内中心部、石上神宮から「山の辺の道」を南へ。竹之内から萱生(かよう)と環濠(かんごう)集落を過ぎた辺りから山が間近に迫る。周辺一帯は初期ヤマト政権の大王墓が密集する大和古墳群(天理市、桜井市)と呼ばれいる地域だ。今月2日、県立橿原考古学研究所は同古墳群の北端に位置するノムギ古墳(天理市佐保庄町)が、従来考えられていた前方後円墳ではなく、3世紀後半に築造された最古級の大型前方後方墓だった可能性が強まった、と発表した。

 卑弥呼の墓説がある箸墓古墳や数多くの鏡が見つかり話題になった黒塚古墳なども同古墳群にあり、主要なものだけで約60基が集中する。その大半が前方後円墳だけに、ノムギ古墳の存在は今後論議を呼びそう。さて、その一角にある天理市中山町の衾田陵(西殿塚古墳)は全長220メートルにも及ぶ巨大な前方後円墳。継体天皇の皇后、手白香皇女の御陵と考えられ、万葉集にも登場する。小さな山のような壮大な古墳を訪れた。


 『 衾道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし 』  柿本人麻呂(巻2-212)


 人麻呂が妻を亡くし、悲しんで詠んだ長歌に続く短歌二首の内の1つ。天理市中山町の山の辺の道沿いに立派な歌碑があるが、意外にも衾(ふすま)道も引手(ひきて)の山も定かではない。ただ、引手の山は後方にそびえる標高586メートルの竜王山と言われ、現在ではこれが定説に。衾道は竜王山に至る道という説が一般的で、衾田陵が今もある。さて、衾とは古代、神事などで使われた白い布のことで貴族はこの衾で棺を覆い、引手の山へ向かった。葬送の道をいつのころからか「衾道」と呼ぶようになったのだろうか。

 引手の山に葬ってはきたが、これから先どうしたらいいのだろう…。トボトボと帰る人麻呂の姿は哀れであっただろう。が、今は違う。大和青垣を背に柿畑が広がる。取材時、まだ色付く前だったが、コンペイ糖を散らしたように木々がオレンジ色に染まるのも間近だ。眼下に広がる稲田もやがて黄金に染まることだろう。ノムギ古墳できょう7日、現地説明会も開かれる。まだまだ残暑が厳しいが、ロマンに満ちた山の辺の道はこれからベストシーズンを迎える。

歌碑

▲山の辺の道沿いにある柿本人麻呂の「衾道を 引手の山に…」の歌碑


写真と文 牡丹 賢治

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