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国原譜

慶長20(1615)年5月の「大坂夏の…

 慶長20(1615)年5月の「大坂夏の陣」では、豊臣方は堀を埋められた不利な状況を打開するため関東方を迎撃する作戦に出た。その第一撃となったのが、道明寺の戦いと呼ばれるものであった。

 徳川方の大軍が東から進入するには、関屋・亀ノ瀬方面から大和川沿いに進む狭隘(あい)な道しかないと判断し、迎え撃ったのが、豊臣側の「五人衆」の一人、後藤又兵衛であった。

 援軍の到着の遅れから孤軍奮闘となり、討ち死にしたが、配下の武士が豊臣秀頼に報告した書き付けが、京都府内で見つかったという報道があった(18日付14面既報)。

 腰に重傷を負った又兵衛が配下の武士に自身の首を討たせていたが、書き付けでは、その際に秀頼から拝領した脇差「行光」を用いたことが初めて分かったという。

 又兵衛には、家康を槍で突いて、落ち延びた家康が堺で亡くなったという伝説がある。また、大宇陀に落ち延びて、僧りょとなり一生を終えたという伝説も残り、屋敷跡は又兵衛桜として親しまれている。

 400年前の歴史のひとこまが、1枚の紙に閉じ込められていた。(恵)

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